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    日本人は、人間を含めすべての生命の根源は霊魂であり

    霊魂が肉体に宿ることで生命活動が生まれるものと考えてきた

    この考え方はキリスト教でも同様だが、

    キリスト教では霊魂をもつのは人間だけで

    動物は魂を持たない生物だと考える

    だから、どんなにかわいがっていたペットが死んでも

    ミサをあげることはない

    一方、日本では動物にも霊魂が宿っていると考えるため

    葬式を出す人もいれば、家族と同じ墓に葬る人もいる

    「寝言を喋っている人に、くそくらえ、といえば死ぬ」

    という、現代人にとってはまったく意味不明の

    迷信を理解するためには、昔の日本人の霊魂観について

    まず知っておく必要がある

    日本古来の霊魂観では、人が死ぬということは

    肉体から霊魂が抜け出した状態だが、肉体は滅びても

    魂は永遠に不滅で、黄泉の国に行ったとしても

    またいつかはこの世に戻ってくるものと考えられてきた

    また、昔の人は、睡眠中の人間は意志を失った状態

    つまり魂が抜けた状態にあると考えていた

    人間の生命活動の根幹である魂を、就寝中は一時的にせよ

    失っているのだから、寝ている人間の肉体は

    いわば抜け殻のようなもの、ととらえていたのだ

    すると、就寝中、身体から離脱した魂はどこに行っているのか?

    これは、神と出会っているにちがいない

    とすると、寝床は神と遭遇する神聖な場所ということになる

    そんな神聖な場所で、しかも魂が抜けた人間に向かって

    「くそくらえ」などとどなりつけたらどうなるだろう

    なにしろ、相手は魂の宿っていない抜けがらである

    言霊にこめられた悪口雑言に対抗できる力が残っているはずもなく

    そのまま死んでしまうのだ…と考えられたのだ

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    さて、私たちは、なぜ迷信と承知していて、なおかつそれを気にし

    また新しい迷信を生み出したりするのだろうか

    その理由の一つは、人間が、科学性あるいは合理性一点張りの

    動物ではない証拠と言うほかはないだろう

    これだけ科学の発達した時代に生きていながら

    人知を超えた存在なり、縁起、めぐりあわせの良し悪しなどを感じ

    畏怖する心は、現代人の心にもまだ息づいている

    北枕や仏滅など「~すると、よくない」式の

    マイナス方向を暗示する迷信の方が

    より強く意識されるのは、「ネガティブバイアス」という

    言葉によって説明されることがある

    プラスよりマイナスを気にする心理傾向をこう呼ぶが、

    たしかに縁起の良いことより悪いことの方が

    人間には気にかかるものなのだ

    また、問題を日本人に限ってみると、現代の日本人が依然として

    迷信を気にしているのは、一つ つの迷信の

    ただごとではない「過去」を感じるからだろう

    迷信には、私たちの祖先が信仰、信奉してきら習俗と慣習の

    エキスが詰まっている。そのことを非自覚的にせよ意識しているため

    日本人として何らかの無視しえない気持ち、

    伝統をおかすことに漠然とした恐れを覚えるのである

    文化や風習は、時代とともに移り変わるもので、

    決して固定化したものではない。

    その部分としての「迷信」もまた、

    時間とともに変化を繰り返してきた

    かつての代表的な迷信

    「食事をしたあと、すぐに寝ると牛になる」

    「夜、爪を切ってはいけない」

    「霊柩車を見たときは、親指を隠せ」などは、

    私たちの先祖にとっては常識的な言葉といえ、

    日々の会話にも頻繁に登場するものだった

    しかし、現代ではその使用頻度はごく低くなり

    若い世代には言葉の存在すら知らない人もいるだろう

    ほかにも、昔はよく使われたが、今では死んだ言葉と

    なっているものは少なくない。だからといって、現代社会から

    迷信が姿を消し去ったというわけではない

    現代においても新たな迷信が再生産されている

    「井の頭公園でボートに乗ったカップルは別れる」

    「東京ディズニーランドにカップルで行くと別れる」などは、

    現代の若者にとって常識的な迷信と言える

    地域によってさまざまなバリエーションが生まれ、

    関西地方では、「万博公園に行くと別れる」というぐあいである

    またコアラのマーチとうお菓子にまつわる迷信

    (眉毛つきのコアラが幸運を呼ぶ)が、爆発的に全国的に

    広がったことも記憶に新しい

    時代の変遷とともに新迷信が登場するのは、

    現代に始まったことではなく、過去においても、

    迷信はその時代時代で新陳代謝をくり返してきた

    幕末、写真機が登場したときには、

    「3人写真で真ん中に移ると死ぬ」といわれ、

    その後革靴が普及した際は

    「靴の紐が切れるのは縁起が悪い」という新迷信が登場した

    柔軟性、可変性に富んでいるという日本文化の特性は

    迷信を巡ってもまた例外ではないのである

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